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今日は何の日?・・赤穂浪士討ち入りの日!

きょう12月14日は何の日?・・今から320年前の12月14日の江戸は朝から大雪だった!
そしてその翌日は、この今朝撮ったこの画像のような、快晴だったそうです。
IMG_2667.gif2021.12.14 6:05撮影
そして今日は何の日?・・昭和の中期以前の方なら、たぶん多くの人たちが「“忠臣蔵”・・赤穂浪士が吉良邸討ち入りした日!」と、云うかも!
その懐かしい文字もいまはほとんど聞かれなくなりました
ということできょうは懐かしの“忠臣蔵”をたどってみましょう!
あらすじは知られている方も多いだろうが
・・・1701年(元禄14)年314日(旧暦)、江戸城・松之大廊下で播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭が、高家の吉良上野介に斬りかかったことに端を発する。
事件当時、江戸城では幕府が「朝廷の使者を接待」しているまっ最中であり、「場所がらもわきまえずに刃傷」に及んだ浅野に対し、当時の将軍・徳川綱吉は激怒された。幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野の播州赤穂浅野家は改易(屋敷の没収)、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じた。
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(現在は「松の廊下跡を記す石碑のみが、皇居東御苑に残すのみ)
それに対し吉良には一切の咎めなし!浅野のみ刑は“片手落ち!”と筆頭家老大石内蔵助らは協議したが、主君の仇討ちのために吉良邸に討ち入る。そして1702年(元禄15)年1214日(旧暦)、大石以下47人(四十七士)は吉良邸に侵入し吉良を討ちとり、吉良の首を浅野内匠頭の墓前(高輪泉岳寺)に供え、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従い全員切腹をした。
の「赤穂事件」を基にして人形浄瑠璃・歌舞伎の演目の一つ『仮名手本忠臣蔵』通称:忠臣蔵)など数多くの創作作品が作られ、その「ご忠臣」に民は湧く! 昭和時代ごろまでのこの時期になると、映画やテレビ劇などでも、当時のそうそうたるスターが登場! が、その時代劇も時代とともに影を潜め、またこの作品の「ご忠義の心」も世間から少なくなり、いまはほとんど影を潜めています                                                                                                        
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また当時の『吉良邸』の広さは、東西134m 南北に63m(2550坪)ともいわれるほどの広大な敷地と伝えられていますが、今はその“うなぎの寝床”ともいわれた屋敷の”面影はなく”、その跡地の一部分には小さな歴史を物語る区立『本所松坂町公園』があるのみです。
今日日中は雨混じりの厳しい底冷えの首都圏でしたが、310年前の12/15は雪も止み冒頭のような快晴とのこと。赤穂四十七士は本所から隅田川沿いを南下し永代橋の上で朝陽を拝み、主君が眠る泉岳寺へと凱旋されたと『忠臣蔵』では伝承されています。
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