2022 令和4年(寅年)・・二日目 流山を歩く!
令和4年(寅年)お正月を祝う!
お屠蘇気分でお隣も町、千葉県流山市の七福神めぐりと云うわけでもないが、神社やお寺をぶらりと歩いてきました。
ここ流山市は江戸時代から“万丈みりん”など“みりん”の町。そして今ではキッコウマンなど醤油の街でとして、街中にはいまでもタイムスリップをしたような家並みも残っています。
その歴史を残し、ナマコ塀に当時を語る絵を描いた、”ミュージアム通り”などもある。
また場所は少し離れますが、住みたい街として若者に人気のある“おおたかの森”などが人気を博しています。そんな街には江戸年間からのお寺や神社がある。
今回はそんな中から拾ってみました。
松戸市馬橋(JR馬橋駅)から出発の“流鉄流山線”は、二両連結の車両が五つの駅を15分ほどで走り抜けまさす。そのきっぷも首都圏では珍しいかつての「堅い紙きっぷ」です。
終点に到着、案内書に従えばまず、“浅間神社”へ!
鳥居には日の丸が、はためいていました。
浅間神社の本殿・・参拝者には“お祓い”をしていただけます。
江戸年間には富士山に登る夢を描いた人たちが集まり、築き上げたりっぱな“富士塚”が鎮座する。
富士塚の解説板によると、すべてが溶岩で作られている。従ってゴツゴツした岩肌でしたが、われも老骨に鞭を打って山頂まで登ってきましたゾー!
この後はまちなみをぶら~り!
またここ流山市は新選組局長“近藤勇”が最後の陣を敷いた地としても有名です。しかし時世は尽き、”地元民に迷惑をかけられない”と、この地で戦わずに官軍へ自首したところです。
その後、慶応4年4/25日 東京板橋で斬首されたとある。
この場所のお隣には“閻魔堂”。そして“常与寺”などが隣接しています。
このあとは旧流山街道を南下し、赤城神社へとすすむ。
ここには巨大しめ縄が貼られています。
なぜ赤城なのだろう?・・その起源は、上州の赤城山が崩れたときにその土砂がここ流山に流れ着き、10mほどの山が出来たという。そこへ神社が造られたと伝承されています。また“流山”の地名も、そこから生まれたとされています。
こちらは七福神の一つ布袋様の寺で、小林一茶 ゆかりの光明院。一茶の句碑など多数あり。
お屠蘇気分でお隣も町、千葉県流山市の七福神めぐりと云うわけでもないが、神社やお寺をぶらりと歩いてきました。
ここ流山市は江戸時代から“万丈みりん”など“みりん”の町。そして今ではキッコウマンなど醤油の街でとして、街中にはいまでもタイムスリップをしたような家並みも残っています。
その歴史を残し、ナマコ塀に当時を語る絵を描いた、”ミュージアム通り”などもある。
また場所は少し離れますが、住みたい街として若者に人気のある“おおたかの森”などが人気を博しています。そんな街には江戸年間からのお寺や神社がある。
今回はそんな中から拾ってみました。
松戸市馬橋(JR馬橋駅)から出発の“流鉄流山線”は、二両連結の車両が五つの駅を15分ほどで走り抜けまさす。そのきっぷも首都圏では珍しいかつての「堅い紙きっぷ」です。
終点に到着、案内書に従えばまず、“浅間神社”へ!
鳥居には日の丸が、はためいていました。
浅間神社の本殿・・参拝者には“お祓い”をしていただけます。
江戸年間には富士山に登る夢を描いた人たちが集まり、築き上げたりっぱな“富士塚”が鎮座する。
富士塚の解説板によると、すべてが溶岩で作られている。従ってゴツゴツした岩肌でしたが、われも老骨に鞭を打って山頂まで登ってきましたゾー!
この後はまちなみをぶら~り!
またここ流山市は新選組局長“近藤勇”が最後の陣を敷いた地としても有名です。しかし時世は尽き、”地元民に迷惑をかけられない”と、この地で戦わずに官軍へ自首したところです。
その後、慶応4年4/25日 東京板橋で斬首されたとある。
この場所のお隣には“閻魔堂”。そして“常与寺”などが隣接しています。
このあとは旧流山街道を南下し、赤城神社へとすすむ。
ここには巨大しめ縄が貼られています。
なぜ赤城なのだろう?・・その起源は、上州の赤城山が崩れたときにその土砂がここ流山に流れ着き、10mほどの山が出来たという。そこへ神社が造られたと伝承されています。また“流山”の地名も、そこから生まれたとされています。
こちらは七福神の一つ布袋様の寺で、小林一茶 ゆかりの光明院。一茶の句碑など多数あり。